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日本紀元(Nihon Kigen)

「令和」- 初春令月、氣淑風 和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香 -初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。

佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳

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森浩一
保育社
カラーブックス212
古墳
—石と土の造形—

 馬見古墳群


 奈良盆地西方の馬見丘陵上の南北に
 ながく分布する古墳群である。

 ここには天皇陵の伝承をもつ古墳は少ないが、
 前期から中期と継続し、
 後期になると大きな横穴式石室を有する

 牧野(ぼくや)古墳を最後として急に形成がとだえている。

 あたかも『記・紀』でたどることのできる
 大豪族葛城氏の消長に共通しているので、
 葛城氏の古墳群ではないかと考えている。

 前方後円墳では
 宝塚・新木山・栗山・築山・川合大塚、

 前方後方墳では新山、

 帆立貝式では
 乙女山などとまるで古墳の博覧会である。

 最近川合大塚の東方で
 大前方後円墳の痕跡らしいものが発見され、
 写真の下方に後円の一部が出ている。

 写真:川合大塚と宮堂古墳の痕跡?
    (左下方の弧形)
「川合大塚と宮堂古墳の痕跡」の画像検索結果
 
写真:乙女山古墳:奈良県北葛城郡河合村左味田

 写真:築山古墳:奈良県大和高田市築山

 写真:巣山古墳:奈良県北葛城郡広陵町
 写真:新木山古墳:奈良県北葛城郡広陵町

 ※ 『出典』
 言語復原史学会・加治木義博:大学院講義録15:22頁

 《重要な、皇居名と所在地名の比較確認》

 雄略天皇は、御所(ごせ)市の葛城山で、
 天皇のような供揃えの神に会う。

 一言主の大神だという説明になっているが、
 現実問題として考えれば、
 5世紀に神が姿を現わすはずがない。

 これは前政権時代の有力者との遭遇が
 描かれているとみていい。

 『記』は長谷朝倉宮で天下を治むと書き、

 『紀』は泊瀬朝倉壇で即位したと書いてある。

 ところが『古事記』は幾つもの歌謡を挙げているが、

 その中の三重の采女(うねめ)の奉った歌には、
 纏向(まきむく)日代宮とある。

 皇居を移したのであれば、
 そのことが書いてあるはずなのにそれがない。

 この答は意外なところにある。

 それはこの纏向日代宮は景行天皇の皇居の名であり、
 垂仁天皇が、あの狭穂姫と暮らした宮も、
 同じ纏向の珠城宮だったことがヒントになる。
 私たちは垂仁天皇=位宮が狭穂姫と共にいたのは、
 種子島だったことをよく知っている。

 それは山幸が海を渡って行った島で
 豊玉姫の島、浦島太郎の竜宮で、
 オオヒルメが八幡を連れて隼人町まで、
 海を渡ってきた出発点の島でもある。

 景行天皇も卑弥呼政権の崩壊後、
 大移動でカラになったそこへ移ったから同じ地名なのだ。

 この纏向がもとは種子島だったことは動かない。

 これも香椎が奈良県に移って橿原になったように、
 地名の移住があった証拠である。

 だから
 「纏」はテン⇒チヌで、
 向は日向のガ、
 チヌガ=角我=ポントスの都だ。

 「馬見古墳群」

 「新山古墳群」

 「築山古墳 (大和高田市)」

 「佐味田宝塚古墳」

 「葛城王朝説」

 「馬見丘陵公園」

M.K記(責)
   連絡先:090-2485-7908

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若草山の鶯塚

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草山の鶯塚

森浩一
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古墳
—石と土の造形—

 《草山の鶯塚
Uguisuzuka-kofun.jpg
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 若草山の鶯塚古墳は
 古都奈良を一望にする若草山の頂上の絶景の地に
 築造されており、清少納言枕草子にある
 「みささぎはうぐひすのみささぎ、
  かしはぎのみささぎ、あめのみささぎ」の
 「うぐいすの陵」と伝えられてきたのが、
 この鶯塚古墳である。
 1733年(享保13年)に墳丘上に「鶯陵」の
 顕彰碑が建てられているが、
 当時は仁徳天皇皇后磐之姫命の陵との考えも
 なされていたようである。

 明治になって八木奘三郎によって
 前方後円墳であることが発表され、
 浜田耕作によって埴輪が採集されている。

 こうして、
 古墳としての認識が広がり、外形実測などが行なわれ、
 1936年(昭和11年)には国の史跡に指定されている。

 実測によると全長は103メートル、前方部幅約50メートル、
 後円部径61メートルの二段築成の前方後円墳である。

 外部施設として、葺石と埴輪をめぐらしている。
 太平洋戦争後、墳丘に柵が設けられた時に前方部から
 仿製内行花文鏡が出土している。
 また別の時に滑石製舟形石製品や船形埴輪、家形埴輪
 (復原すれば大形の切妻屋根家屋となる)
 が採集されている。

 山頂の地形を利用した古墳は古墳時代の前期のものと
 考えられたこともあったが、
 滑石製品の採集で、
 この古墳については5世紀初頭まで
 時期が降るのではないかと考えられている。

「若草山山頂鶯塚」の画像検索結果


 古墳にはいろいろな名称がつけられているが、
 優雅な点ではこの古墳の右にでるものではない。

 標高341メートルの高所に築かれた
 全長約百メートルの前方後円墳で、
 二段に築かれ、埴輪がたてられ、葺石が随所に見えている。

 後円部の頂には、鶯塚の石碑がたち、
 裏面にはこれが『延喜式』にでている平城坂上陵であり、
 清少納言が枕草子でいう鶯塚である旨がしるされている。

 享保18年に東大寺の康訓らが建てたのである。

 鶯塚は、高所立地の典型的な古墳であるが、
 前期でもその後半に築かれたものであろう。

 家形、舟形埴輪のほか、小型の内行花文鏡も出土している。

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佐紀盾列古墳群

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佐紀盾列古墳群

森浩一
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古墳
—石と土の造形—

 《佐紀盾列古墳群》
「佐紀盾列古墳群 画像」の画像検索結果

 西方にある佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳、
 五社神古墳などは前期後半の時期に属し、
 東方のウワナベ・コナベ・ヒシアゲ古墳などは
 中期の古墳である。

 宝来山(垂仁陵)古墳は少し南に離れ、
 近くに唐招提寺の建物を望むことができる。
 周濠は一部後世に拡大されているが、前方後円形をしており、
 同一水面でめぐる濠としては最古の形をしめしている。

          《佐紀盾列古墳群》
「ウワナベ・コナベ古墳」の画像検索結果

五社神(神宮皇后陵)古墳
ヒシアゲ(磐之姫陵)古墳
宝来山(垂仁陵)古墳
「佐紀盾列古墳群 画像」の画像検索結果

 8世紀に平城京が建設されているにさいして、
 敷地内の古墳を破壊したことは
 『続日本紀』の記録で推察されていたが、
 最近の平城京の国営発掘によって、
 宮内で大型の二基の前方後円墳が破壊され地上から
 姿を消していた様子が確かめられた。

 さらに宮外でも古墳が破壊されていたことが
 ウワナベ古墳南方で確認された。

 この古墳群は今日では丘陵麓に東西に並んでいるが、
 南方の古墳が取り去られたからにほかならない。
 現地では墳丘や濠以外に見るものは少ないが、
 不退寺境内には巨大な石棺が置いてある。
 
 また
 横浜市三渓園にはもと海龍王寺にあったという石棺がある。
 ともにこの古墳群にあったものであろう。

《ウワナベ・コナベ古墳》
 「ウワナベ・コナベ古墳」の画像検索結果
 宮内庁陸陵参考地
③ コナベ古墳
( 小奈辺古墳 )
④ ウワナベ古墳
( 宇和奈辺古墳 )
奈良市佐紀町 2010.10.

 明治時代に英人ゴーランドが海外に発表したのがコナベである。
 最近の道路建設で、
 ウワナベの濠の一部を破壊したのは許せぬ暴挙である。

《大和六号墳と鉄鋌》

 ウワナベ古墳は宮内庁の監理する陵墓参考地であり、
 その陪塚の一つが円墳の大和六号墳である。
 太平洋戦争が終わった直後、
 この付近はアメリカ占領軍のキャンプとなり、
 この古墳が除去されることになった。
 
 せめて発掘だけでもという願いは認められ、
 私(森浩一)も参加した。
 初めて見るブルドーザーが
 数分間動くと早くも遺物があらわれた。

 米軍は作業を急がせたので
 出土状態の図をつくる時間もない。

 私(森浩一)が密かにメモしたのが上の図である。

 この古墳には遺骸はなく、
 大型282鉄鋌個、小型590個鉄鋌
 ほか大量の鉄製品と少数の工具の石製品だけが出土した。
 鉄鋌は鉄の地金である。

 『図』大和6号墳でのねりがねの出土状況
    (上は写真を使った復原図、下は出土当時の見取り図)
「大和6号墳でのねりがねの出土状況」の画像検索結果

《佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳の銅鏡》

 「佐紀陵山(日葉酢媛陵)古墳の銅鏡」の画像検索結果 
 「写真」仿製の方格規矩鏡

奈良盆地南東部の前期古墳群をはなれて、
 奈良市北郊の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群へいくと
 様相が少し変わる。

 佐紀陵山古墳はその群では初期に築かれた
 方後円墳であるが、
 大正五年の大盗掘で後円部の竪穴式石室から
 遺物がもちだされ世間を驚かせた。

 この写真は、当時高橋健自博士が作られた拓本である。

 天神山では舶載鏡が大部分であったのが、この次期になると、
 中国鏡をモデルにして畿内の鏡作り工人が模作している。
 方格規矩四神鏡では四神を唐草風にあらわし、
 内行花文鏡では縁にわが国特有の直弧文を加えている。

 《天平以後に造られた現・日葉酢媛陵》
※出典:(加治木義博)KOFUN
 陵のもつ重要な線は、すべて関連している
 直線上の陵墓に支配されているし、
 また、それらの陵墓の所在を指し示してもいるのである。

 その数例をあげておこう。
 成務天皇陵の前方部下底線は元正天皇陵(奈保山西陵)と
 磐之媛陵の後円部北端とを結ぶ線である。
 日葉酢媛(ひばすひめ)皇后陵の前方部下底線も、
 磐之媛陵の中央部を経て元正天皇陵に達する線である。
 (この皇后陵は『延喜式』にはない。後世の決定である。)
 孝謙天皇陵の前方部下底線は東南はるか
 18.5キロメートル先の箸(はし)墓(倭迹迹日百襲姫墓)の
 後円部東端に達し、さらに崇峻天皇陵に至る
 24キロメートルの直線によって形成されている。

 箸墓、崇峻陵に比べて、
 8世紀なかばの孝謙女帝の陵が新しいことはいうまでもない。

 とすれば、
 この下底線の歪みは、直線に沿って
 始めから歪めて造られたのである。

 この結論には疑う余地がない。

 とすれば、奇妙な事実に、お気づきにならないであろうか?
 それは成務天皇陵と日葉酢媛陵という古い時代のはずの陵が、
 後世に造られたはずの
 元正天皇陵によって影響されているという点である。
 
 古い二陵の下底線が始めから歪めてあったとしたら、
 それは一体なぜなのか、という謎である。

 そして、
 その東への延長線が交わる所に、なぜ元正天皇陵があるのか。

 あらかじめ後世の子孫のために、
 そうした歪みをわざわざ作っておいたのか?
 しかしそれなら、
 あまりにも時代の離れた元正天皇でなく、
 もっと早い時代の、時代の接近した天皇の陵が、
 そこに造られてもよさそうなものだ?
 といういくつもの疑問が、重なり合って出てくるのである。
 同じことは応神陵でもみられる。
 これはどうみても元正天皇陵が先であって、
 成務、日葉酢媛の両陵は、
 それ以後に造られたものとみるはかない。

 だが薄葬令後、天皇の陵も名ばかりになった後に、
 こうした
 伝説的な天皇や皇后の陵を造営するということが 
 はたしてあり得たのであろうか?

 薄葬令後に陵が全く造られなかったのでないことは、
 孝謙女帝陵があることでもわかるが、
 元正女帝が平城京の完成者であること、
 その平城京敷地内には古墳があったが、
 それを削り取って都市計画を実施したことなどを考えあわせると、
 天平二十年(748年)の元正上皇の死以後に、
 かつて削り取った古墳の主の崇りを恐れて、
 この成務、日葉酢両陵を造り直したということは、
 あり得ないことではない。

 それはこの二陵が
 履中陵型式に近いからでもある。
 本シリーズの中の『卑弥呼を攻めた神武天皇』では、
 神武天皇の皇后にあたる日葉酢媛の御陵が、
 『延喜式』の中にないという重大なナゾについてお話しした。

 このことには当然、当時の人も気がついた。
 そこで新しく造営したという裏面史が、
 リアルに目に浮かんでくる。

 <古墳の墳形と他の陵墓との関係>
※出典:(加治木義博)KOFUN

 (本図に引いた線は目標物を隠してしまわないように
  離して引いてある)
 0. 元正陵 
 1. 磐之姫陵
 2. 日葉酢姫陵
 3. 成務陵
 4. 孝謙陵
 5. 神功陵
 い. うわなべ古填
 ろ. こなべ古墳 
 は. 平城天皇陵
 M. 聖武陵
 N. 垂仁陵
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桜井茶臼山古墳

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桜井茶臼山古墳

森浩一
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—石と土の造形—
 
桜井茶臼山古墳
「桜井茶臼山古墳」の画像検索結果


 近鉄大阪線で伊賀、伊勢の方へ向かう人は、桜井を過ぎ、
 やがて奈良盆地がつきようとする手前、
 右方の車窓に巨大な前方後円墳が
 そびえたつ姿を眺めることができる。

 これが日本の考古学や古代史に
 数えきれないほどの問題をなげかけている茶臼山である。

 茶臼山古墳は桜井市外山(とび)に所在し、
 同名の古墳が日本各地にあるので混乱をさけるため、
 上に桜井を冠してよんである。

 私(森浩一)がこの古墳に注目したのは、
 太平洋戦争の直後であった。

 そのころまでに奈良の古墳について発表された書物には、
 どうしたわけかこの古墳が書きもれていた。
 当時私(森浩一)はまだ大学生であったが、
 一つには、
 この古墳の形が奈良や大阪の発達しきった
 前方後円墳にくらべると、
 前方部の幅が狭い柄鏡式をしていて
 年代がさかのぼるのではないかと思われたこと、
 いま一つは戦前の神話に基づく
 大和政権観にたいする批判が自由になり、
 それにつれて盆地の南東部、旧磯城郡が
 大きな政権の発達にとって重要な地であることが
 文献史学者の提唱するところとなり、
 この古墳は二つの意味で、
 ぜひ実態を調べる必要があったのである。

 昭和24年 私(森浩一)がこの古墳を実査したところ、
 後円部頂上に盗掘穴があけられ、
 天井石が見えていたので、
 末永雅雄博士に連絡し、
 奈良県立橿原考古学研究所の手で発掘がおこなわれた。

 この古墳は後円部頂上の中央に
 竪穴式石室が設けられていた。
 内部には高野槙(こうやまき)を繰り抜いた
 長さ6メートルの大木棺が安置され、王者の棺にふさわしい。
 この棺を保護するため一面に朱をぬった割石で四壁を積上げ、
 上を12枚の天井石で覆っていた。

 竪穴式石は、
 全長6.7メートル、高さ1.6メートル、幅1.1メートルであった。

 竪穴式石室と内部の木棺:奈良県 桜井茶臼山古墳
「桜井茶臼山古墳」の画像検索結果

 「桜井茶臼山古墳」
 「桜井茶臼山古墳」の画像検索結果

 《桜井茶臼山古墳の遺物》

 石室内部は古く数回の盗掘で荒らされていたが、
 わずかに残る断片からも埋葬時の豪華さをしのぶことができる。
 銅鏡は十数面の破片が残り、
 方格規矩四神鏡、内行花文鏡、三角縁神獣鏡、
  画文帯神獣鏡などがある。

 天神山に比べ三角縁神獣鏡が多いのが特色である。

 銅鏡のほか、勾玉(まがたま)や菅玉(くだたま)、
 鉄製剣、鏃などの武器もあり、副葬品の組合せは
 鏡・玉・武器が基本である。

 このほか宝器的な碧玉製腕輪類があった。

 この古墳の副葬品で特筆すべきものに、
 玉杖(ぎょくじょう)と玉葉がある。

 玉杖とは『後漢書』に見える語で、
 果たして同じ品かどうかは不明であるが、
 王者の権威を象徴するこの遺品を飾る語としてふさわしい。

 長さ約53センチ、上部と下部に碧玉の飾りがつき、
 杖の部分は鉄心に碧玉の管を通している。

 玉葉は碧玉製で、大きな方で長径約8センチ、
 死者の眼をふさぐための葬具かと、推定されている。
関連画像

関連画像
 

 《有孔の土師器壺》

 古墳の墳丘の内部でも埋葬施設のある部分はとくに聖域である。
 茶臼山では石室をとり囲む南北約10メートル、
 東西約13メートルの長方形区画に土師器壺を並べていた。

 この方形区画は、形と規模が弥生式中期から出現する
 方形周溝墓に類似しており、こにょうな巨大な墳丘になっても、
 頂上聖域にその名残があるかと推定されている。

 壺の底に孔をあけることは、本来の貯蔵の役割を否定している。

 死者埋葬や葬送の儀式には
 有孔または穿孔の土器が使われているので、
 その関連で理解することができる。

 それにもまして重要なのは、
 前期や中期古墳に多い朝顔形埴輪は、
 製作の当初から上にかくれる下部を筒形に簡略化し、
 壺形の上部だけを忠実に模索したものであり、
 この壺は朝顔形埴輪に先行するものであった。

「桜井茶臼山古墳の有孔の土師器壺」の画像検索結果

「桜井茶臼山古墳の有孔の土師器壺」の画像検索結果

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渋谷向山(景行陵)古墳

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渋谷向山(景行陵)古墳

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—石と土の造形—
 
谷向山(景行陵)古墳
「渋谷向山(景行陵)古墳」の画像検索結果

 景行天皇は記紀では垂仁天皇の子、
 崇神天皇の孫の関係であるが、
 これも景行陵とする資料に乏しい。

 江戸時代には王の塚とよばれていて、
 幕末の修築のころまでは崇神陵とされていた。

 行燈山古墳よりも、溝の形が原形に近いのは幸いである。

 この古墳は、前期古墳に限れば、
 大和はもとより日本最大の規模をもっている。

 行燈山古墳にもあったが、
 埴輪円筒をめぐらしている。

 なお幕末にこの古墳から出土したと推定される
 見事な石枕が知られている。

 『出典』言語復原史学会・加治木義博:
    邪馬臺国の言葉:149~151頁

 《壮大な倭人の測量文化》
 これらのことで、はっきり意識しておいて戴きたいのは、
 <倭人>は<中国系文明>でなく、
 <インド系文明>の持ち主だったという点である。

 また海を越えて50数km先の距離を湘定する方法すなわち
 <三角法>または<天測法>を知っていたということである。

 三角法はギリシャの天文学者ヒッパルコス
 (B.C190~B.C124年)が創始者とされているが、
 これは地球と月の距離や、月の直径、百個の恒星の詳細、
 <地球の歳差運動>などの測定といった
 驚くべき業績によるもので、
 彼がこれだけの応用をなしとげたどいうことは、
 彼に至るまでに、
 三角法の発達の歴史があったということである。

 だがそれは余談にわたる。
 ここでは<3世紀の倭人>が、
 それを実地に役立てていたという事実が、
 それ程不思議でもないということを知って戴く
 参考になればそれでいいのである。

 では<倭人>は、どんな器具を使って、
 そんなに精密な測量ができたか。

 現存する遺物ではそれは<鏡>しかない。

 鏡面の反射で、その位置を確認すると同時に、
 その背面にある目盛りを分度器として用いれば
 立派に測量ができる。

 三角法を御存知の読者にはその使い方を
 今さら説明する必要はあるまい。

 だから
 倭人がこのシステムを使うほかに方法のない
 大土木工事を、
 実際に行っていたという証拠を簡単に御覧にいれておこう。

 それは卑弥呼の墓を出発点とする古墳の築造である。
 筆者(加治木義博)は40年前に、
 奈良県の古墳が直線上に並んでいるという事実を発見して以来、
 これにとり組んできたが、
 それは図ではっきりお判りのように、
 山脈を越えて正確に配列している。

 それは山間に隠れた広川寺の西行墓や、
 聖徳太子墓などを余すことなく貫いているだけでなく、
 遠く伊勢神宮に及んでいるのである。

 これは鏡による光通信なくしては行い得ない文化所産である。

 また、応神、仁徳などの大陵は、
 その重要な点と線が、すべて他の陵墓や、
 池中の島などと結合している。

 これも本書ではとうていお話しすることは
 不可能であるからいずれ
 ダイジェストしてご覧に入れることにして、
 小さくて不鮮明だが、略図で御辛抱戴くほかない。

  「図:古墳造営は壮大な設計と測量に基づいでいる」

 (実際には数百の線が交叉しているが省略)加治木原図

 ① <N>仁徳天皇陵→<O>応神天皇陵→<S>崇神天皇陵。
   この3陵を結ぶ線は東進して伊勢神宮に達している。
 ② 奈良(大仏殿)天理→崇神天皇陵→景行天皇陵→桜井→
   良助法親王墓を結ぶ線は
   南進して熊野大社(新宮)に達している。
 ③ <J>神武天皇陵 <K>欽明天皇陵 

   <1>神功皇后陵 <2>成務天皇陵 <3>磐之姫命陵
   <4>元正天皇陵 <5>島の山古墳 
   <6>衾田陵   <7>景行天皇陵 
   <8>箸墓 <9>崇峻天皇陵 <10>良助法親王墓
   <11>石舞台古墳 <12>橿原神官 
   <13>宜化天皇陵 <14>斉明天皇陵
   <15>孝安天皇陵 <16>孝昭天皇陵 
   <17>大津皇子墓 <18>飯豊天皇陵 
   <19>孝霊天皇陵 <20>聖徳太子墓 
   <21>推古天皇陵 <22>敏達天皇陵 
   <23>雄略天皇陵 <24>帝塚山古墳
   <25>履仲天皇陵


 枚岡神社 玉租神社 法隆寺 
 石上神官 大神神社 談山神社
 三輪山 鳥見山 香具山
  国見山

 「図:応神陵の構成要素と各陵墓の関連性」(加治木原図)

 ① <1>安閑皇后陵 <2>正北 <3>安閑皇后陵 
   <4>古室山古墳 <5>安閑天皇陵 
   <6>仲津姫皇后陵 
   <7>敏達天皇陵を経て藤原武智磨墓

 ② <9>日本武尊陵 <10>允恭天皇陵 
   <11>聖徳太子墓 <12>城山古墳 <13>日本武尊陵
   <14>千塚 <15>推古天皇陵 <16>城山古墳
   <17>応神天皇陪塚を経て清寧天皇陵

 ③ <18>古室山古墳 <19>孝徳天皇陵 
   <20>城山古墳 <21>応神天皇陪塚 
   <22>吉備内親王墓 <23>松塚 
   <24>河内大塚   <25>黒姫塚 <26>孝霊天皇陵
   <27>大津皇子墓  <28>雄略天皇陵
   <29>野中寺伽藍跡 <30>文珠院西古墳 
   <31>河内大塚   <32>仁徳陵円頂部中心 
   <33>東首舌鳥古墳 <34>島の山古墳 
   <35>顕宗天皇陵  <36>河内大塚 
   <37>大座間池中之島を経て野尻古墳跡

 ④ <38>孝霊天皇陵 <39>牧野古墳 
   <40>仲哀天皇陵 <41>大座間池を経て平岡古墳

 ⑤ <42>孝霊天皇陵 <43>来目皇子墓 
   <44>吉備内親王墓

 (実際はこの二倍以上の線が関連しているが、
  本章の証明にはこれで充分であり、
  繁雑で専門的に過ぎるので省略した)

 「写真:直線上の古墳」(加治木原図)

 空から見ると古墳が直線上にならぶことが
 一と目でわかるものもある。

 相互の距離と大きさが写其のピントの合う
 範囲にあるものは少ないが。

 (これは山の辺陵墓群のうちの手前から
  景行陵。崇神陵。手白香墓(衾田陵=継体皇后墓)。
  乙木社の森。)前々図の7、S、6参照。
「直線上の古墳」の画像検索結果

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